11.洗脳に気づいていく
ブラジルに再度帰ってきて数か月、妻が二人目の子をお腹に宿しました。
妻が妊娠中、また私はクイアバに遠征に行くのだけど、クイアバでCD売りをしているところ、一人の男が「お前はかわいそうだな」と言ってきます。「別にかわいそうじゃないよ」と言い返します。男は「ニューワールドオーダーというのを調べてみろ」言います。
私は気になったので帰ってネットでニューワールドオーダーというのを調べてみました。
世界には数人の人間が富を握っていてという、社会の構図はピラミッドになっていると都市伝説でよく聞くような話ですよね。でも、その当時はそういう内容に衝撃を受けました。フリーメイスンにイルミナティー、陰謀論の存在を知っていくのです。
それと同時に東日本大震災は地震テロだというユーチューブの発信者がいて、食い入るように情報を集めていました。その発信者は統一教会の暴露話もしていました。
その時にあるシリーズのユーチューブ動画がありました。
9.11の同時多発テロ事件からはじまり、CGを使って庶民はメディアに洗脳されているというもので後半には統一教会についても述べられていました。
私は今まで統一教会の中にいて、団体の検証をすることをしていませんでした。私は恐れを捨てて、統一教会に対する視点を変えいろいろ調べていったのです。メシアの家庭では相続争いもしてるし、パラグアイでは誘拐事件があるなど、いろいろマフィア的な側面も見えてきたのです。私はこの団体で活動するということは悪に加担することになるので辞める事に決めました。
遠征を終えてカンポグランデに帰るのですが、もう教会には行きません。そうしたら文鮮明が9月3日に死亡したのです。
そしてI氏が電話をしてきます。
その頃、私はI氏には反発的態度をとっていました。
I氏も私に怒ったり、その後あやまりに来たりと、昔とは違う関係になっていました。
そしてお父様が死んだので条件を捧げよというのですが私は拒みます。
そうしたらI氏も我慢できなくなって私に罵ってきます。そうやってI氏は今まで通りお父様の威を借りて反省させようとしますが、私はこれ以上恐れることはありません。怒鳴り返しました。I氏は電話を切り、それから追いかけてくることもありませんでした。
2か月後、2人目の娘が無事生まれました。
私は日本で生活したいということを相対者に話して、日本で生活することを進めました。娘が生まれ6か月して私は一人日本に帰りました。
そして一年半を経て相対者と2人の子供を日本に迎えることが出来て、生活苦は続くのですがその後は日本で過ごしていくのでありました。
10.二世誕生
家庭を持ってもなかなか子供が出来なくて不思議に思っていたところ相対者は避妊の手術をしていたのです。そんなこと無断でするのかと怒ったのですが、案の定私の怒る気持ちなど彼女には理解できません。私はもう話が出来ない相手だとずっと思っていました。
私はアメリカからブラジルに返ったときには相対者は既にカンポグランデに戻っていました。私も荷物をまとめてカンポグランデに行きました。
私たちは家が見つかるまで、義理の母の家に居候させてもらいました。
相対者はいとこがホットドック屋をしているので、すぐにレジの仕事に就く事が出来ていました。
私の経済活動はずっと物売りです。
大学は転入ができたので、家の近くの校舎に通うことが出来ました。通ってはいたのですが結局大学は卒業出来ませんでした。
家庭も持ったし、カンポグランデではI氏とのつながりも薄くなっていました。I氏も他のメンバーを見なければなりません。
家庭を持ってからは、いつも上司に尋ねるという生活ではなくなってきました。
今までは遠征に行くにもI氏にお伺いをたてていたのですが、自分で決めて遠征にも行くようになっていました。宿泊する場所は各地の教会かメンバーの家です。
私はそうして遠征している間でもI氏から連絡があります。コルンバ市で韓国の先生の大会があるから、献金をするか現場まで来いと呼びつけます。
遠征をやめてサンパウロからコルンバまで行かないといけませんが旅費など出してももらえません。家庭生活をしなければならない立場なのに、かなりいまいましさを感じていました。
そして行けばまた、コルンバの宣教師から怒られます。少し気が緩んでいたところ「自分からやることを尋ねてこないのかないのか!」という具合です。応援に行っているのに怒られていました。
教会の活動の為なら無償で働かせるのは当然です。全て公的に生きれてなければ讒訴される世界でした。
当時、カンポグランデにはインダスという、ジャルデンプロジェクトを遂行する組織がありました。
古参の文鮮明の弟子が会長を勤めています。パンタナールを開拓して食糧問題解決や旅行事業など考えられていました。そのプロジェクの為にメンバーに奉仕活動をさせます。
私は経済活動ということで働かされるのですが、売り上げたお金は全て捧げよとなり、妻が妊娠を控えているのに何も考えてくれないのだなとも思いました。
個体を保証しない全体はありえないなどと言っておきながら個体を助けることは教会には無かったです。教会長は全体の為に生きたら恵みがあるだろうと言うだけです。
いい加減、教会には恨みを抱きました。
アキダワナにいた頃はI氏はメンバーの活動で集めたお金をI氏家族の生活の為に使てたんじゃないかと感じさせられます。
なぜかというと我々メンバーにとって経済活動も伝道も同じ様に大事に思っていたのですが、経済活動と伝道の時間を入れ替えたら、I氏の奥さんが騒ぎ立てます。経済活動の売り上げをあてにしていたんだと感じさせられました。
ある日、I氏はこんなことも言います。「アベルの生活を良くするのはカインの責任であると文先生がおっしゃってる」とまた、自分にとって都合のいいみ言葉をもってきたもんだ、そんなもん皆の前にでも言ってみろと思いました。
そしてI氏の奥さんが日曜の礼拝で説教した時があったのですが、メンバの不満ばかりをぶちまける説教でありました。説教の内容というのは自分で決めれるものでしたから、自分を通して神が語っているから何でも話していいみたいに思っていたのだと思います。自分は悔い改めができないのに、メンバーに悔い改めをさせようとします。
こんな説教は聞いてられないと途中で帰る宣教師家庭もいました。
私は教会生活の中で責任がはたされていったら、いつか音楽活動をしたいと我慢をしながら生きてきましたが、そんな境遇にはならなかったです。
なので作品を作ってこれを経済活動にしていますというなら文句はないだろうと思い。簡単に作詞作曲していたものをスタジオで録音してCDを作りました。演奏をするわけでもないのにそれを手売りして生活していました。
パソコンでCD-Rを複製していきました。自分の作品なので海賊版でもなくオリジナルですよと言ってました。
そうして、私は子供が生まれる一か月前にボールペン売りからオリジナルCD売りになっていました。
子供は帝王切開で生まれました。ブラジルは日本で考えられないほど帝王切開が当たり前で計画的に帝王切開をします。
医者も何かに理由をつけてやはり帝王切開で良かったねと理由付けをします。その時ぐらいはI氏に電話しましたが、I氏も無事に生まれるんだったら帝王切開でもいいじゃないですかと言われるので、受け入れました。
私は相対者に出産日にお金が少ないと心配させてしまいました。午前中まで物売りをして午後から出産の予定で午後には出産に立ち合いました。
手術は順調で無事に長男は生まれてきました。生まれてすぐに抱かしてもらい、子供の体重を計ったり、手際よく検査をしていきます。ブラジルは帝王切開の技術は高いのだなとは思いました。
長男が生まれてからは相対者は以前とは比べようもないくらいしっかりしています。母性本能の強力さも感じましたし、理想ばかりで現実では何も出来ない自分とは大違いと、目が覚めた部分もありました。
私の仕事はCD売りを続けます。子供が生まれて6か月ごろにまたサンパウロに遠征に行きました。乳飲み子を残して心細かっただろうけど、相対者は親戚も集まる大家族なので、みんなで子供の面倒を見てくれます。その辺はありがたいと思っていました。
そのうちCDは大量にダイビングできるように5重の塔になっているダビング器を購入しました。サンパウロなどに旅する時はそのダビング器をスーツケースに入れて旅先でダビングしながら商品を増やしていました。
そして私は1度日本に帰国します。本当は父親に孫でも見せれたら良かったですが、一人で帰ることになります。
日本のブラジル人が多い地域では、もっとCDが売れて一気に経済復帰が出来るかもと思っていましたが、やはりしんどさを感じてバイトをするようになりました。
ブラジルにいた時、一枚のクレジットカードを持っていて、新幹線代などの支払いが残っていました。私がアキダワナで献身生活をしていたので、支払いをI氏に任せていたのですが、I氏が支払いを遅らせてしまっていました。そこでクレカは停止され支払いだけが残されていました。
私はせめて滞納分だけを納めて、ブラジルに帰りました。
その年は2011年で1月から6月ごろまで日本にいたから3/11の東日本大震災は経験しています。
西日本にいたので、そんなに揺れは感じなかったですが放射能浴びてないかなと心配してブラジルには帰りました。
私は無事にブラジルに帰り、家族と生活をします。
やはり売るものはCDです。また新しいものを作ろうということでデスクトップミュージックのやり方を調べてオリジナルのCDを作ります。そして出来たら売りに出します。全部で3作作りました。合計で2万枚近くは売っていました。
私はブラジルに数年いてあまり強盗には出くわしたことがなかったのですが、一度だけ強盗まがいに出くわした事があります。それはサンパウロにいたときです。
サンパウロのパウリスタ通りというところは人が多いので、そこで通行人に声をかけてはCDを手売りしていました。
夜になるとレストランが開きブラジルではよく店の外でテーブルが並べられています。
店の外で食べている客は、たまに出現する売り子には何を持ってきたのーと興味をもって、話を聞いてくれます。店も自由にテーブルを回ってもいいよと言ってくれます。そうして私は夜のレストラン街を歩くのはやりやすいと思っていました。夜も遅くなりその日はもういいかと切り上げて宿に向かいました。
途中、ひとけの無い道で乞食らしき男が私に小銭をくれとお願いしてきました。私は小銭をあげたのですが、その男が立ち上がって「じゃあ今度は財布の中身を渡してもらおうか」と言い出しました。そして男はズボンに手を入れてピストルを持っているよと見せかけてきました。
ブラジル旅行ガイドなどにも書いてあったことを思い出して、こういう時はお金を渡してしまおう、命を失うよりはましです。というのを思い出したので私は稼いだお金を渡しました。
そしたら男は「もう消えていいよ、俺も警察が怖いからな」というようなことを言ってその場を離れていきました。
私はあとから腹が立って、もしかしたらピストルも持ってなかったんじゃないか?
人の親切心を利用する最低なやつだなーと怒りがこみ上げました。
やり口は教会と似ていますね。
そのあと、パトカーがいたので強盗に出くわしたと訴えました。
警察はわかったというもののまともに動いてくれたのかはわからなかったです。
9.家庭出発
彼女はカンポグランデに住んでいたのですが、家庭を持ちたいのならばアキダワナに住まなければならないと言って、迎えにいきました。
バスを利用したのですがカンポグランデからアキダワナに着く寸前に私が愛しきれずに彼女を怒らせてしまいます。本当に苦痛が絶えなかったです。
彼女はアキダワナについてすぐに家庭を持ちたかっただろうけど、しばらくは訓練のために教会で寝泊まりします。
掃除の手際が良いのにはI氏を感心させていました。ですがI氏に対しても不機嫌なのは変わりません。
私の思いとは裏腹に相対者は家庭を出発するために家を探そうとします。私はもっと訓練されてほしいと願っていたのですが、I氏は彼女の気持ちがわかって私にも家庭出発する準備をさせました。
しばらくして貸家も見つかり、家庭出発することになりました。
結局、葛藤しながらも彼女と家庭出発をすることになってしまいました。
そしてI氏は私に大学を進めました。衛星放送で授業を進めるような大学があり、私も受験勉強をして入試に望めば受かっていたのです。
ビザの問題はある日カンポグランデに行き、永住ビザの申請をして、後に取得することになります。もともと書類上では婚姻届けをしていたので彼女と家庭を出発することになったので進めていくことにしました。
でもその時、安定した収入などありません。全然学費のことなどI氏も心配してませんでした。
私は勤めているわけでもないし、生活費はボールペン売りをして捻出するしかなかったのです。その当時の私は地に足が付いていなかったのでそんなには心配することもなく神が養ってくださるみたいに考えていました。
たまにボールペン売りの遠征にはいくようになっていました。
やはりクイアバ市にはよく行きました。
宿泊費を収めることで寝泊まりさせてもらい、ボールペン売りを続けました。日曜にはその教会で礼拝を受けていました。
家庭を出発して数か月後、教会長たちは人事異動になっていきます。
S氏はカンポグランデからサンパウロへI氏はアキダワナからカンポグランデへ人事異動になりました。
そうなると私達もカンポグランデに住むことにしようとなりました。
カンポグランデに移り住む前にI氏が物売りの指導をアメリカの2世にしてくれと言ってきました。I氏はブラジルの2世の責任者とつながりがあって、物売りの指導には私を推薦してたのでした。
私はアメリカに一ヵ月行くことになりました。アメリカではメタルピクチャを売り歩きました。そして一か月ミッションをこなしました。 報酬はないですが、ノートパソコンをプレゼントされました。
そしてなんと、アメリカに行ってる最中、嫁が妊娠してるというニュース が入ってきてました。その時はすごく 嬉しかったのを覚えています。
8.アキダワナ教会
アキダワナに着いてI氏に会うと無事に保護されました。そしてパスポートをなくした話をすると「メンバーが盗んで売るつもりだよ」とI氏は言います。
そしてそこから私はI氏を頼ることにしました。まずはパスポート再発行の手順を指導され日本領事館のあるサンパウロに行きました。その時の滞在先はワールードカープという学生メンバのー施設です。数日滞在させてもらいました。そして活動もしないといけないので、そこのメンバー達とも一緒にボールペン売りの活動もしました。
そのころ文鮮明は世界の各地で大会をしていて、ブラジルの隣国のボリビアでも大会があり、I氏の指示で私はボリビアに向かいました。
私は文鮮明の警備という責任分担が与えられました。ボリビアの兄弟姉妹と過ごしたのですが、すごく素直なので親しみを感じていました。
文鮮明が宿泊するホテルで警備もするのだけど、何度も何度も料理が運ばれており、皆、競うようにメシアに侍る(仕える)んだなと当時は思っていたのですが、今思えば信者が侍ってくれるのをいいことに美食三昧を送っているだけだと考え直しました。
大会は警備の為、参加出来なかったのですが、次の朝5時からの訓読会には参加出来ました。そこで初めて文鮮明を真近に見て握手もしました。訓読会の途中でお母様(文鮮明の妻)は部屋を抜け出ました。部屋に帰って寝てたんじゃないかと後で考え直しました。
ボリビアでの大会が終わると私は日本に帰るためにサンパウロに行きます。
そして私がブラジルを出る前にI氏と交流のあったワールドカープの責任者が私に一人の女性メンバーを紹介しました。もう祝福は自然消滅したと思っていたので、別の祝福の相対者としてどうかと見合わせてくれました。その当時はお見合いの祝福は許されていました。
まあ教育もされていない女性に比べたら理解しやすいし、今後はこの女性と祝福を進めていくのかと思いながらブラジルを脱出しました。
後から思ったのですが、文鮮明がマッチングしない時代になってきたとはいえ、身近なメンバー達がマッチングされていきます。祝福の相対者は世界中で最もあなたにふさわしい人が与えられると聞いていたのですが、案外近場で適当に決められてるんじゃないかとも思ってきました。
I氏は日本に帰ったら、まず清平の40日修練会、そのあと野の花会のマイクロに行くよう指示をしました。そして私はそのミッションをこなし2007年にはアキダウワナに戻りそこで献身生活をすることになりました。
ある日、I氏は私と日本に帰る前に会った別の女性を見ることになります。するとI氏はあんな女性は私にはふさわしくないと言って、無かったことにしてしまいました。
アキダワナでの活動といえば午前中はボールペン売り、午後からは伝道や勉強、メンバーそれぞれの活動になります。
I氏はワールドカープを盛り上げたくて大学生をたくさん作りたいと言っていました。
教会には数人の男女の学生が入居して活動をしていました。
私もそこに交じってリーダーなどもしました。
私がアキダワナで生活している間でも、S氏とI氏の間ではやり取りをしていたと思います。
でも教会から逃げた相対者とは破棄の手続きはしていないももの終わったと思っていました。
それでもS氏は私にカンポグランデに来て話し合いをさせようとします。
彼女の家に行き、彼女の親戚もいるなか、I氏とI氏の奥さんも話し合い加わりました。I氏の奥さんも彼女が気に入らない感じでいました。教会での祝福結婚を願うのであれば条件を呑まなければいけないと説明するのですが、相対者も折れません。
私は自分から祝福を破棄に出来ません。I氏から私の願う道を整えてほしいと思っていました。
話の決着はつかず、私はアキダワナに戻り献身生活をします。
そして経済活動の遠征に行きます。遠征とはバスで他の地域にいきます。よく行ったのはマットグロッソ州のクイアバ市になります。そのほか、パラナ州のクリチバ市、ミナスジェライス州のベロオリゾンテ市など、いろいろな都市に遠征は行きました。
私はブラジル滞在中にビザの期限が迫るのですが、そのたびに旅をさせられていました。まずパラグアイに行かされます。そこで30日のパラグアイでのビザが認められるのですが、私はまたブラジルで過ごすことになります。
ブラジルとパラグアイには国境のない地域があり、自由に行き来が出来る場所があるのです。そこを通って来ました。
30日が過ぎようとする頃、またブラジルとパラグアイの国境の地域に戻ります、ところが日数がすぎてしまったのです。
そのことに関してはI氏は罰金を払えば大丈夫だからと安心を持たせました。私がパラグアイに入ったときビザの日数が切れてるね。と指摘されドキドキしましたが、I氏の言うように過ぎた日数分の罰金を払うだけでした。
不法滞在ともなると日本人の印象では犯罪を冒すぐらいの事だと思っていたのですが、大陸間の国では感覚の違いを感じました。
そこはブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3カ国が隣接する地域でした。
その後、私は在アルゼンチンのブラジル領事館にビザを取得しにいきました。
私の他にもバックパッカーぽい女性もブラジルビザの取得にきていて、「30日のビザしかくれないのー」と不満を漏らしていました。
とにかく、すでに現地に来ていたら最低でも30日のビザをもらえるんだと知りました。私は再度ビザを取得してブラジルに戻りました。
そうこうしているうちにブラジルで先祖解怨式が開かれると聞きます。
私たちメンバーはもちろん先祖解怨式に参加するのですが、そこでI氏は相対者に参加するように言います。もしここで来ないのだったら祝福は破棄にすると言ってくれていました。
私は彼女は来るのを嫌がるだろうから決定的に終わったと思っていたのですが、なんと来たのです。彼女との関係は首の皮が一枚つながった感じです。
相対者には他のメンバーを通して自分の信仰の無さに気づいてほしいといつも思っていました。彼女のように人を尊敬しない女性は嫌で仕方が無かったのです。
7.3回目のブラジル
青年の支部で数年働いたと言っても給料などありません。私は3回目のブラジルにいく為に1か月ちょっと引越し屋のバイトで旅費を作りました。
3回目のブラジルに行く時には父親も空港まで見送ってくれました。本当は良くは思っていなかったでしょうが、私には反対しても無駄だろうとあきらめていました。
そして、3回目の時は相対者は国際空港のあるサンパウロまで出迎えに来ていました。
本来は日本に連れていく計画を立てるつもりだったのですが、会ってすぐにケンカをしました。
そして二人だけでは到底一緒にいれないと思ったので、サンパウロからカンポグランデに行くことにしました。そしてS氏に指導を委ねました。
私は相対者が信仰の訓練も受けていないのが気に入らなく、カンポグランデの教会で信仰の訓練を受けさせたいと願っていました。
そしてS氏と話をして献身生活という方向で決まり、彼女には入居させるようにしました。そして何をするかといえば経済活動と伝道です。
最初はボールペンの売り子となって町の人に売りに行きました。
私は日本でも訓練を受けていたので、必要最低限の言葉だけを言えるようになれば大丈夫だと思いポルトガル語の販売トークを暗記して次々と町の人に声をかけていきました。
そして民家にも一軒一軒訪問して回るのですが、否定に否定が続いていました。
そうして夕方、終わる時間の間際で、買ってくれる人と出会い、そこから連続して売れるようになっていきました。
献身メンバーは2、30人いたのだけど、3日目には自分が一番実績が出ていました。そう考えたときに、日本での訓練は厳しいのだと感じました。
私はこうして献身生活を続けていたのですが、ある日、相対者のわがままを受け入れずにいたら相対者は家に逃げて帰ってしまいました。
祝福でもなければ一発で縁が切れる行為です。逃げてしまう相対者に驚きがありましたが、S氏にしてみれば私が愛していかなければならないと言うだけです。
S氏が教育してこなかったのにひどい押し付けを感じていました。まあ私の方が受け止める力があると思ったからだと思います。
相対者が家に帰って、S氏には彼女を追いかけて恨みを解いてこいとでも言われるのかと思ったのですが、私の経済活動の実績の良さを見て「メンバーを教育すればより良い条件になる」と言ってメンバー一人一人に指導するという責任を与えてきました。これまた利用したいだけじゃないかと思っていました。
S氏に対してはこれは大嘘だろうと思うエピソードに、
カンポグランデ教会は毎夜、皆で祈祷会をするのですが、たまに韓国の清平という地で行っている悔い改めの祈祷をさせます。
そしてS氏の奥さんが数人のメンバを力の限り叩きつけます。清平では体を叩く事で悪霊を出すという役事があります。
清平でもあるまいし、役事をしているようなふるまいですが、叩かれたメンバーは非常に痛かったと思います。泣いているのは悔い改めではなくて痛いから泣いてるんじゃないかとも思いました。
清平でしか役事は出来ないと言われていたのに勝手に役事まがいの事をしていました。
もう一つは、他界した元メンバーの霊会からの手紙が届いたと言って、霊会の様子を語った内容の手紙を読み上げます。「霊会では大母様(文鮮明の義理の母)もいるし、霊会での事実がわかって私は教会を離れたことを後悔している」という内容です。これもまたS氏がメンバーを脅すために作ったように感じました。
ある日私はS氏と車で他の市の教会に連れていかれたことがあります。そこはアキダワナ市といいます、とにかく私はS氏には追い込まれるだけなので、他の日本人も知っておきたかったので良い機会でした。アキダワナの教会長はI氏といい、S氏とは違って少し許しのわかる宣教師でした。日本人の私を貴重に思ってくれ、優しくしてくれたのでいい印象を持ちました。
私はまたカンポグランデで経済活動、伝道をしていきますが、ある日パスポートがないことに気が付いて命の危険を感じました。「献身者といえども人の物をくすねる癖があるから気を付けてね」とS氏に言われていたので、たまらなくなりました。
教会生活でこんなにも追い込まれたことは無かったです。
こんなとこにいたら廃人にさせられると思ってアキダワナ行きのバスに乗ってアキダワナ教会を目指しました。責任者を通さずにこんな行動をしたのは初めてです。誰も知らない地でこんな目にあわされてプッツン切れてしまいました。
6.ブラジルへ
祝福の相対者がブラジル人になり、私は韓国で祝福式を受けたのですが、相対者はブラジルの衛星中継で祝福式に参加していました。
私は献身者だったため勝手に動くことができません。
初めてブラジルへ行けたのは修練会に参加するという名目で許されました。
その修練会というのはジャルデンという市内で行われている家庭持ちの為の修練会になります。私は家庭は持っていなかったですが参加は出来ました。
私はジャルデンに向かう前、カンポグランデという州都を経由しました。そこで相対者に会う予定でした。まずカンポグランデで出迎えたのは相対者を伝道したカンポグランデ市の教会長S氏でした。彼は統一神学校を卒業し、宣教師としてブラジルに来ていました。後にブラジルの会長までになります。
S氏は私と会ってある程度の訓練を受けていることを確認すると、相対者の事情を話してきました。
「たとえ愛しにくい人であろうと祝福を守らないといけない」と言います。私が祝福を2回壊したということも聞きその弱みを握ろうともします。
私も今度祝福を壊してしまったら、もっと重い罪を背負わなければならない。自分が出来なかったとしても後孫が引き継いでいかなければならないと思い込んでいるので、進撃に聞こうとします。
教会長は「彼女は母子家庭で父親の愛に飢えている。あなたが愛で彼女の恨みを解いていかなければならない」と言い聞かせようとしてきました。
相対者に会う前にこんな話をされるので一気に不安になります。
そしていよいよ相対者に会うのですが、その時の印象は地獄の餓鬼にでも出会ったかのような印象でした。自分の清算しなければならない罪はこんなにも重たいものなのかと感じさせられました。
私はジャルデンの修練会に行かなければなりませんが、ジャルデンに向かう前に教会長は相対者と3人でカフェなどでデートをさせます。その時、彼女は教会の不平不満ばかりを言っていたので醜くしか映りませんでした。
相対者は教義に感銘を受けているのではなくて、「カナダに留学が出来るよーとか、日本人と結婚できるよー」みたいな餌でつるような伝道のされかたで、教義を学びみ旨を成していく気持ちなどは持っていませんでした。
その後、私は彼女と別れて一人ジャルデンに向かいます。そこからジャルデンの43日の修練会生活が始まるのですが、ブラジルに着いた早々、前途多難な道のりを感じました。
修練会の主な内容は文鮮明の説教集などを読み続ける訓読の期間、そして奉仕活動期間というものでした。
修練会ではいろいろなイベントがあったのですが、ある日、日本で会長も勤めたことのあるO元会長が来ました。
O元会長は自分でもポルトガル語を学びながら講義をしたり、写真が趣味とか言っては自分で撮ったブラジルの写真集を製本して販売したり、かなり自由なことが出来るんだなと思っていました。
そして後日、S氏もカンポグランデの青年たちを数人引き連れてジャルデンに修練を受けに来ました。数日間でしたがそこには相対者もいて、少し一緒にすごすことになりました。私は彼女が信仰の道に興味がないので楽しく過ごせません。やはり機嫌を損ねてしまうだけです。
S氏からはあなたが愛で受け止めなければならないと言われるだけでした。
そしてなんとS氏は修練会のプランである残りの奉仕活動をカンポグランデにきて相対者に尽くすことを奉仕活動としなさいと命じてきました。修練会の責任者とは話を通しておくからと言って認可を取り付けておりました。それとビザが切れたら延長も考えましょうねとも言われていて、心の底から人質になったような気分でいました。
O元会長はS氏に対して、「彼は実績が欲しいだけだら、あなたにブラジル旅行を延長させなさいと言っているだけだ、期間が過ぎたなら日本に帰りなさい。」とも言われた。
O元会長からはS氏の根性がわかったのでしょうね。S氏はポーカーフェイスなので胡麻化すのはうまいと思います。きれいな話を作ってはメンバーを動かすのは得意のように見えました。
そして私はカンポグランデ教会で寝泊まりしながら毎日、相対者の家に訪問してご機嫌を取るという気味の悪い日々を送らされていました。
そして修練会の閉会式にはジャルデンへ帰り、またカンポグランデで過ごし、明日には日本に帰ろうかという時に腹痛を起こしてしまいます。医者に見てもらうのですが、昨日彼女の家で食べたトマトに当たったと言います。特に私はブラジルでの免疫がないのでそうなったと言われました。ブラジルでは何度か極度の不安に陥らされて正常さを保てない時間がおとずれていました。
急遽、帰りの予定変更の手配はS氏がしたのだけど、日本では帰国予定日に帰ってこないので父親は青年の支部に乗り込んでいました。遠い地で何が起こるかもわからないのにすごく心配したと思います。
そして次の年にも祝福を壊さない為に私はブラジルに行ったのだけど当時の青年の支部長は2日ぐらいしか許してくれませんでした。ブラジルに行くのに2日ほどとはかなり厳しかったけど、私を働かせないでいるのはもったいないとでも思ったのだと思います。
S氏は私たち祝福を進めていくのかも決めあぐねているうちからビザの為だからと婚姻届けをさせました。
支部でも私はブラジルにいかないといけないと訴えていたので、徐々に献身メンバーから勤労青年へと移っていきました。
5.統一教会青年支部
教会を明かされたメンバーは次のコースとしては新生トレーニングというのが用意されていました。
そのトレーニングは青年の支部の施設に入居しないといけません。数名の男女が参加し仕事帰りの夜には講義を受けていくというものです。スタッフもトレーニング生も同じ釜の飯を食べるので家族のような気持ちにもなります。
その新生トレーニングに事情で参加できないメンバーは通いで上級トレーニングという待機所みたいな部署で過ごすことになっていました。
トレーニングは講義中心の新生トレーニングと実践中心の重生トレーニングと呼ばれるものがありました。そして一通りトレーニングを通過したメンバーは仕事を辞めて、教会の為に働く献身者になるか、仕事をしながら活動する勤労青年になるかに別れます。
そこでの献身者は住・食は支部で保証されてますが、月に1万円ぐらいの小遣いをもらうだけで働いていました。
それでも私は献身者になりたいと思っていました。何故そう思うのかというと洗脳されていたからになります。その洗脳とは何か催眠術にでもかけられているわけでもなく、価値観を完全に変える教育によるものです。
人間は堕落することにより万物よりも劣る立場に落ちてしまった。元に戻るためには万物を捧げることにより帰っていくことができる。
所有観念をもっていては天国にいけない、それはサタンであると思わされます。
そしてメシヤに仕える生活が最も義であると思わされているからであります。
入居をして価値観が変わってきたメンバーにはイサク献祭だと言って、聖書に出てくるアブラハムがもっとも未練のあるわが子イサクを神の命令により捧げようとした様に、財産や貯金などに未練を持ってはいけないと捧げるように仕向けてきます。
私は献身者にはなっていなかったのですが、他の教区で組織するマイクロと呼ばれる経済部隊には参加しました。神奈川に事務所を持つマイクロ部隊にも参加をしたことがあります。そこでは責任を持たされたりもしていました。自分は信頼されているのが嬉しく責任を引き受けていました。ところが一年と数か月経った頃、元の青年の支部に呼び戻されるのでした。
元の青年の支部ではその頃、韓国人の教区長がすごく青年に興味を持ち青年の支部に干渉をしてきておりました。
メンバーにみ言葉の理解を教化させよということで、積極的にいろいろな修練会に参加させていきます。
私は神奈川から戻ってきた後、もう一人の姉妹と千葉の21 日の修練会に参加することになりました。 21 日の修練会が終わった後に、私はどうなるかと思っていたら青年の支部でのマイクロ部隊に人事が決まりました。
そして1 、2 ヶ月 過ごした後に支部に帰宅した時、2回目の相対者から祝福破棄を申し入れられ祝福が壊れてしまいました。後述になりますがここまで私は祝福を2回受けています。そして2回壊すことになります。
その後、 当時の青年の支部長からは祝福を壊した者は宇宙を破壊したのと同じに値すると言われました。
私はしばらくは再祝福は受けるものかと思いました。せめて3人は伝道して人格者になってから受けたいと思っていましたが、「すぐに次の祝福を準備しなさい」と言われるので考える暇もなく申し込まされました。
その後、またマイクロに戻るのですが、ある路程から帰っ てきた時に、私の祝福の相手が決まっているということで、お披露目会がありました。
ここで 祝福の相対者がブラジル人であることを知らされます。教区長が「これがあなたの相対者ですよ」と写真を持ってきていました。 そして感謝して敬礼を40回しなさいと命じて、私はそのようにしました。
そしてその年の2002年2 月、過去にも行ったことのある韓国での祝福式に参加しに行きました。
私の相対者はブラジル人でも珍しくシャイな性格じゃないかと思って手紙や詩などを送ったりしまし たが、返事はありませんでした。
祝福式から帰ってきてまた、み旨(活動)に戻ります。私はまたマイクロ部隊になるのだけど、今度のマイクロは祝福を受けたメンバーで信仰の訓練をしないといけないということで男女合わせて大人数の所帯となっていました。
私は伝道の部署に行くこともありますが、献身生活の大部分はマイクロで過ごすことになります。そののち私は献身生活をしながら、ブラジルに何度か行くことになります。