10.二世誕生

 

家庭を持ってもなかなか子供が出来なくて不思議に思っていたところ相対者は避妊の手術をしていたのです。そんなこと無断でするのかと怒ったのですが、案の定私の怒る気持ちなど彼女には理解できません。私はもう話が出来ない相手だとずっと思っていました。 

私はアメリカからブラジルに返ったときには相対者は既にカンポグランデに戻っていました。私も荷物をまとめてカンポグランデに行きました。

私たちは家が見つかるまで、義理の母の家に居候させてもらいました。

相対者はいとこがホットドック屋をしているので、すぐにレジの仕事に就く事が出来ていました。

 私の経済活動はずっと物売りです。

大学は転入ができたので、家の近くの校舎に通うことが出来ました。通ってはいたのですが結局大学は卒業出来ませんでした。

家庭も持ったし、カンポグランデではI氏とのつながりも薄くなっていました。I氏も他のメンバーを見なければなりません。

家庭を持ってからは、いつも上司に尋ねるという生活ではなくなってきました。

今までは遠征に行くにもI氏にお伺いをたてていたのですが、自分で決めて遠征にも行くようになっていました。宿泊する場所は各地の教会かメンバーの家です。

私はそうして遠征している間でもI氏から連絡があります。コルンバ市で韓国の先生の大会があるから、献金をするか現場まで来いと呼びつけます。

遠征をやめてサンパウロからコルンバまで行かないといけませんが旅費など出してももらえません。家庭生活をしなければならない立場なのに、かなりいまいましさを感じていました。

そして行けばまた、コルンバの宣教師から怒られます。少し気が緩んでいたところ「自分からやることを尋ねてこないのかないのか!」という具合です。応援に行っているのに怒られていました。

教会の活動の為なら無償で働かせるのは当然です。全て公的に生きれてなければ讒訴される世界でした。

当時、カンポグランデにはインダスという、ジャルデンプロジェクトを遂行する組織がありました。

古参の文鮮明の弟子が会長を勤めています。パンタナールを開拓して食糧問題解決や旅行事業など考えられていました。そのプロジェクの為にメンバーに奉仕活動をさせます。

私は経済活動ということで働かされるのですが、売り上げたお金は全て捧げよとなり、妻が妊娠を控えているのに何も考えてくれないのだなとも思いました。

個体を保証しない全体はありえないなどと言っておきながら個体を助けることは教会には無かったです。教会長は全体の為に生きたら恵みがあるだろうと言うだけです。

いい加減、教会には恨みを抱きました。

アキダワナにいた頃はI氏はメンバーの活動で集めたお金をI氏家族の生活の為に使てたんじゃないかと感じさせられます。

なぜかというと我々メンバーにとって経済活動も伝道も同じ様に大事に思っていたのですが、経済活動と伝道の時間を入れ替えたら、I氏の奥さんが騒ぎ立てます。経済活動の売り上げをあてにしていたんだと感じさせられました。

ある日、I氏はこんなことも言います。「アベルの生活を良くするのはカインの責任であると文先生がおっしゃってる」とまた、自分にとって都合のいいみ言葉をもってきたもんだ、そんなもん皆の前にでも言ってみろと思いました。

そしてI氏の奥さんが日曜の礼拝で説教した時があったのですが、メンバの不満ばかりをぶちまける説教でありました。説教の内容というのは自分で決めれるものでしたから、自分を通して神が語っているから何でも話していいみたいに思っていたのだと思います。自分は悔い改めができないのに、メンバーに悔い改めをさせようとします。

こんな説教は聞いてられないと途中で帰る宣教師家庭もいました。

 私は教会生活の中で責任がはたされていったら、いつか音楽活動をしたいと我慢をしながら生きてきましたが、そんな境遇にはならなかったです。

なので作品を作ってこれを経済活動にしていますというなら文句はないだろうと思い。簡単に作詞作曲していたものをスタジオで録音してCDを作りました。演奏をするわけでもないのにそれを手売りして生活していました。

 パソコンでCD-Rを複製していきました。自分の作品なので海賊版でもなくオリジナルですよと言ってました。

そうして、私は子供が生まれる一か月前にボールペン売りからオリジナルCD売りになっていました。

子供は帝王切開で生まれました。ブラジルは日本で考えられないほど帝王切開が当たり前で計画的に帝王切開をします。

医者も何かに理由をつけてやはり帝王切開で良かったねと理由付けをします。その時ぐらいはI氏に電話しましたが、I氏も無事に生まれるんだったら帝王切開でもいいじゃないですかと言われるので、受け入れました。

私は相対者に出産日にお金が少ないと心配させてしまいました。午前中まで物売りをして午後から出産の予定で午後には出産に立ち合いました。

手術は順調で無事に長男は生まれてきました。生まれてすぐに抱かしてもらい、子供の体重を計ったり、手際よく検査をしていきます。ブラジルは帝王切開の技術は高いのだなとは思いました。

長男が生まれてからは相対者は以前とは比べようもないくらいしっかりしています。母性本能の強力さも感じましたし、理想ばかりで現実では何も出来ない自分とは大違いと、目が覚めた部分もありました。

私の仕事はCD売りを続けます。子供が生まれて6か月ごろにまたサンパウロに遠征に行きました。乳飲み子を残して心細かっただろうけど、相対者は親戚も集まる大家族なので、みんなで子供の面倒を見てくれます。その辺はありがたいと思っていました。

そのうちCDは大量にダイビングできるように5重の塔になっているダビング器を購入しました。サンパウロなどに旅する時はそのダビング器をスーツケースに入れて旅先でダビングしながら商品を増やしていました。

そして私は1度日本に帰国します。本当は父親に孫でも見せれたら良かったですが、一人で帰ることになります。

日本のブラジル人が多い地域では、もっとCDが売れて一気に経済復帰が出来るかもと思っていましたが、やはりしんどさを感じてバイトをするようになりました。

ブラジルにいた時、一枚のクレジットカードを持っていて、新幹線代などの支払いが残っていました。私がアキダワナで献身生活をしていたので、支払いをI氏に任せていたのですが、I氏が支払いを遅らせてしまっていました。そこでクレカは停止され支払いだけが残されていました。

私はせめて滞納分だけを納めて、ブラジルに帰りました。

その年は2011年で1月から6月ごろまで日本にいたから3/11の東日本大震災は経験しています。

西日本にいたので、そんなに揺れは感じなかったですが放射能浴びてないかなと心配してブラジルには帰りました。

私は無事にブラジルに帰り、家族と生活をします。

やはり売るものはCDです。また新しいものを作ろうということでデスクトップミュージックのやり方を調べてオリジナルのCDを作ります。そして出来たら売りに出します。全部で3作作りました。合計で2万枚近くは売っていました。

私はブラジルに数年いてあまり強盗には出くわしたことがなかったのですが、一度だけ強盗まがいに出くわした事があります。それはサンパウロにいたときです。

サンパウロパウリスタ通りというところは人が多いので、そこで通行人に声をかけてはCDを手売りしていました。

夜になるとレストランが開きブラジルではよく店の外でテーブルが並べられています。

店の外で食べている客は、たまに出現する売り子には何を持ってきたのーと興味をもって、話を聞いてくれます。店も自由にテーブルを回ってもいいよと言ってくれます。そうして私は夜のレストラン街を歩くのはやりやすいと思っていました。夜も遅くなりその日はもういいかと切り上げて宿に向かいました。

途中、ひとけの無い道で乞食らしき男が私に小銭をくれとお願いしてきました。私は小銭をあげたのですが、その男が立ち上がって「じゃあ今度は財布の中身を渡してもらおうか」と言い出しました。そして男はズボンに手を入れてピストルを持っているよと見せかけてきました。

ブラジル旅行ガイドなどにも書いてあったことを思い出して、こういう時はお金を渡してしまおう、命を失うよりはましです。というのを思い出したので私は稼いだお金を渡しました。

そしたら男は「もう消えていいよ、俺も警察が怖いからな」というようなことを言ってその場を離れていきました。

私はあとから腹が立って、もしかしたらピストルも持ってなかったんじゃないか?

人の親切心を利用する最低なやつだなーと怒りがこみ上げました。

やり口は教会と似ていますね。

 そのあと、パトカーがいたので強盗に出くわしたと訴えました。

警察はわかったというもののまともに動いてくれたのかはわからなかったです。